1940年代

1940年代初期、ブランドの露出を増やすのが産業界の定法だった時代に、「パルファム・シャネル」は正反対の道を行き、実際に広告量は減少していた。
1939年と1940年には、広告は重要視されたが、1941年以降それらは劇的に削減され、印刷広告はほとんど実施されなかった。
「パルファム・シャネル」重役たちは、広告支出の必要性を感じていなかったと思われる。香水の売り上げ高は第二次世界大戦中にも全盛を維持し、アメリカ合衆国では1940年から1945年にかけて売り上げが10倍に伸びるなど、シャネルNo.5は大人気だった。
「パルファム・シャネル」重役たちが革新的なマーケティング法を思いついたのは、大戦中のことであった。販売顧客層を中流階級に拡大するため、1934年にポケットサイズの小瓶が導入された。香水の小瓶を軍の駐屯地の売店(PX)で販売することで、市場の拡大を狙ったのである。市場の独占状態を危うくするかもしれないという恐れもあったが、この計画を実施したところ、このマーケティング法の可能性が実証された。シャネル ボストンバッグ ブランドの地位は揺らぐことなく、贅沢とロマンス、すなわち兵士が故国に残してきた恋人への贈り物というイメージを確立したのである。
戦争が終結してナチスが敗北すると、戦時中のシャネルの対独協力行為が露見する恐れが出てきた。イメージ向上の試みとして、カンボン通りのブティックの窓にシャネルのサインとともに、希望するアメリカ軍人全員にシャネルNo.5の瓶を無償配布すると告知された。兵士たちはパリの「贅沢」な瓶を持ち帰るために長い列を作り、「フランス警察が彼女に髪の毛一本でも触れたなら、憤慨しそう」な勢いであった。

シャネル ボストンバッグ