香り 調合の由来

1920年初頭、フランスのリヴィエラで恋人のロシア貴族ディミトリ大公からエルネスト・ボーを紹介された当時、シャネルの中には現代的な香りを生み出したいという着想があった。 ボーはアルフォン・ラレー社の熟練調香師で、そこで1988年から働いていた。 ラレー社はロシア皇族御用達の香水会社であり、「サンクトペテルブルグの宮殿は、香水が香る宮廷として有名だった[38]。」 アレクサンドラ皇后のお気に入りの香りはバラとジャスミンを贅沢に使用したもので、モスクワのラレー社で特別に調香されており『Rallet O-DE-KOLON No.1 Vesovoi 』と名付けられていた。
1912年にボーは、ナポレオン戦争の勝敗を分けたボロジノの戦い100周年を記念し、男性用オー・デ・コロン「ル・ブーケ・ド・ナポレオン」を送り出した。この成功をふまえ、ボーはこの香りの女性版を生み出そうと思いついた。女性用香水に初めてフローラルアルデヒドの化学組成を使用したウビガンの「ケルク・フルール」(1912年)は、非常に好評を博していた。
彼はケルク・フルールに含まれるアルデヒドの実験を繰り返し、その成果は香水「ル・ブーケ・ド・キャサリン」に結実した。この香水は、1913年のロマノフ王朝300周年記念の品とされた。
しかしル・ブーケ・ド・キャサリンの発売は、間が悪かった。第一次世界大戦目前というタイミングに加え、香水と同名の帝政ロシア皇后エカチェリーナは、1世2世ともにドイツの出自であった。あまり喜ばしくない連想に加え、ル・ブーケ・ド・キャサリンは非常に高価だという事実も相まって、この香水は商業的には失敗に終わった。
「ラレーNo.1」といった香水ブランドの再生は失敗し、1914年には第一次世界大戦も勃発、ブランドを世間に周知させるには最悪のタイミングだった。
ボー自身も連合国軍と白ロシア軍に所属し、1917年から19年にかけて大陸最北のアルハンゲリスクに大尉として駐屯、Mudyug 島の刑務所で囚人のボリシェヴィキを尋問した。 極所の氷、荒涼とした海景色、吹雪の白さが彼に閃きをもたらし、この地のぴんとした空気を、新しい香水の合成に生かしたいと考えるようになった。
ボーは、1920年夏の終わりから秋にかけての数か月をかけて、のちのシャネルNo.5につながる香水を完成させた。 彼はラレーNo.1のバラとジャスミンのベースをよりクリアかつ大胆に変更、大戦中に居住していた極地の新鮮で無垢なイメージを思い起こさせる香水に仕上げた。ボー自身が発明した「ローズE.B」や、新しいジャスミン Jasophore に由来する香りなど、最新の合成物の実験を重ねた。ニオイイリスの根や自然由来のムスクを増量し、製法も複雑化した。
劇的変化をもたらしたのは、アルデヒドの使用であった。アルデヒドとは、カルボニル基、酸素、水素の有機化合物である。化学反応のある段階で研究施設の設備を利用して反応の進行を止めると、香りを分離することができる。上手く使えば、アルデヒドは「薬味」のように、香りの効能促進剤の役割を果たす。 ボーの助手コンスタンチンの言によれば、ボーが使用したアルデヒドは、清々しく澄みきった「心なごむ冬の香り」がしたという。
この素晴らしい配合は、不注意による研究事故の結果、手に入れたものだという伝説がある。実験助手が、ブランドのシャネルバッグ 原液と10パーセントの希釈液とを見まちがえた結果、これまでにないほど多種多様のアルデヒド化合物が生成されたのだった。
ボーはシャネルにサンプルを提示するために、ガラスの小瓶を10個準備した。サンプルは、核となるバラ、ジャスミン、アルデヒドの配合バリエーションによって2つのグループに分けられ、それぞれに1 - 5、20 - 24の番号が振られた。
のちにシャネルは、次のように語っている。
「No.5、そう、あれは私の待ち望んだ香りでした。他のどの香水とも違う。女性の香りがする、女性の香水。」
シャネルによれば、シャネルNo.5の製法は香水が作り出されて以来ほとんど変わっていないが、唯一、野生のジャコウネコと特定のニトロ基ムスクだけはどうしても変更する必要があったという。
1921年に制作されたオリジナルのNo.5がベルサイユにあるオズモテック(アンティーク香水の博物館)に保管されている。これはシャネルを代表して、調香師のジャック・ポルジュが寄付したものである。

ブランドのシャネルバッグ